ブライダル・イヴ



雪に閉ざされた北の街を歩いていると、いつもは人の気配が少なく静かな建物に
多くの人が出入りしているのに気づいた。
重く垂れ込めた鉛色の空から降る粉雪が、石造りの建物の中から漏れる明かりを受けて
キラキラと光の粒子のように輝いている。

早く戻らなければ仲間達が心配するだろう。

そう思いながらもセイの足は導かれるように建物の中へと向かっていた。


江戸でも京でも目にした事の無い異国の装飾がいたるところに散りばめられた
教会という場所に、初めて足を踏み入れた。
ほんの数年前までは切支丹は禁教とされて厳しく取り締まられていたものだが、
ここにも時代の流れは如実に現れている。

整然と並んだ長椅子に異国の人々がポツリポツリと座っていた。
其々が何事かを一心に祈る方向には、十字架と呼ばれる神の象徴が掲げられている。
そう言えば共に戦っている仏蘭西人の男が、数日前にたどたどしい日本語で
今日は神の子の生誕を祝う聖なる日なのだと言っていたか。
けれどセイの印象に残っているのはその日を差す単語では無く、
話の流れで彼が口にした別の言葉だった。


「ケイクっていう甘いお菓子を食べるそうですよ?」

周りの邪魔にならぬよう、椅子に座って目を閉じると口の中だけで呟く。
いつの間にか癖になってしまった独り言だが、当然応える相手はどこにもいない。

「きっとご自分も食べたいって騒ぐんでしょうね」

(私も食べたいですっ! ねぇ、神谷さん。作れませんか?)

ふいにセイの周りを懐かしい気配が取り巻き、瞼の裏に懐かしい面影が浮かび上がる。
その姿は京で見慣れた物では無い。
北の果てまで転戦する中で、土方の命によって身につけるようになった洋装だ。

「沖田先生・・・な、ぜ・・・」

セイの問いに少しだけ恥かしそうに照れ笑いを浮かべた男が、再び口を開いた。

(作ってくださいよ、神谷さん。食べたいです!)

「作れるはずなんて無いじゃないですか。見た事も無いんですから」

(ええ〜? だったら誰か作り方を知ってる人を探して、教えて貰いましょうよぉ。)

「無茶を言わないでくださいってば。副長に叱られますよ?
 そんな事を言ってる場合か、って」

(土方さんはすぐに怒るんですからねぇ。いいです、今は諦めます。
 でもいつか必ず作ってくださいね)

「いつか・・・ですか?」

(ええ、いつか。いつかそんな日が来ますから。ケイクを食べていても叱られない日が)

いつかそんな日が訪れるから頑張れ、と伝えたくて。
姿は見えずとも、今も自分はセイの傍らにいるのだと教えてくれているのだろうか。
着慣れない物を纏った姿を見せて。

「先生・・・」

(そうしたら、う〜〜〜んと大きなケイクを作ってくださいね。絶対ですよ、神谷さん)

「はい・・・はい、絶対に・・・」


震える瞼を開けると教会の中には誰も居なくなっていた。
幻のような一瞬が、あの五月の終わりから凍りついたままだったセイの心を優しく溶かした。
ふと何かの気配を感じて祭壇の後方を見ると、壁にそっと祀られた
白い女性の小さな像が目に映った。

穏やかで慈愛に満ちたその微笑みは、あの日最愛の男が最後に自分に向けたものと全く同じで。
全ての負の感情を削ぎ落とし愛だけに溢れた微笑に、セイの瞳からとめどなく雫が零れ続けた。

聖なる日には奇跡が舞い降りると、異国の男は語っていた。




(・・・・・・イ・・・・・・)

(・・・・・・きて・・・・・・セ・・・・・・)

「んっ・・・・・・」

「ほら・・・起きなさい。・・・セイ?」

「・・・・・・沖田・・・せんせい?」

重い瞼をどうにか開けて、コシコシと擦ろうとするとやんわりとその手を握られた。

「もう。教会なんかで転寝をする人がありますか。風邪を引いたらどうするんです?」

呆れ交じりのその声は耳に馴染んで心地良い。
もっと聞いていたくなってセイは再び瞼を閉じた。

「寝たら駄目ですってば。ほら、セイ」

「沖田先生」

小さく呟くとクスリと笑う気配がする。

「夢を見たんですか? でもそろそろ私の元に帰ってきてくれないと拗ねちゃいますよ?」

「えっ?」

パチリと開けた眼に飛び込むのはザクリとした白いセーターと黒いパンツに
コートを羽織った男の姿。
セーターはセイが編んだ物だ。

「あっ・・・総司さん?」

「はい。お帰りなさい」

にっこり笑うその男ははもや『武士の沖田総司』ではない。
セイも『神谷清三郎』ではなかった。
あの日、幻の総司が言った“いつか”の時を手に入れた自分達がここにいる。
スルリとセイの頬を伝った雫に総司が眼を見開いた。

「っ! 何か哀しい夢を見ていたんですか?」

「いいえ。とても暖かい夢を・・・優しい夢を・・・」

ふるふると首を振りながらもセイの涙は止まらずに総司を困惑させる。

「はぁ・・・本当に泣き虫さんなんですから・・・。ほら、明日は大切な日なんですから、
 泣き膨れの顔なんて困るでしょう? 泣き止んでくださいよ」

聖堂の灯りを反射して煌くセイの涙を総司が掬い取ると、輝きは弾けて
水の軌跡を指先に残した。



ようやく涙の止まったセイの肩を抱き、聖堂を出ながら総司が謝罪の言葉を口にする。
元はと言えば待ち合わせの時間に自分が遅れたりしたから、
セイが夢などで泣く事になったのだろう。

「色々と明日の打ち合わせがあって・・・すみません」

しゅんと項垂れるその様子にセイが微笑んで首を振った。
明日は二人の新たな門出の日なのだから、互いに何かと用が立て込むのは仕方の無い事。


「あのね・・・」

セイが総司の腕をひっぱり自分に注意を向けさせる。

「今度、大きなケイクを作ってあげますね?」

「ケイク・・・ですか?」

突然のセイの言葉に聖堂を出た総司は小さく首を傾げながら傘を開いた。

「はい。う〜〜〜んと大きなケイクです♪」

楽しそうに幸せそうに微笑むセイを見つめて、総司も笑みを浮かべる。

「楽しみにしてますね」

「はいっ!」



一つの傘に肩を寄せて入る二人の影が北の街角に消えてゆく。

無人となった教会の中。
永き時、その場にあり続けた聖母像が変わらぬ微笑をたたえていた。